東日本大震災15年 堤 勇高 2026/03/06 去年7月30日、カムチャツカ半島東方沖で地震が発生し、宮城県沿岸には津波注意報が出され、のちに津波警報へと切り替わりました。津波注意報が出た当時、私は取材で塩釜港にいて、いざ船に乗り込もうという状況でした。そんな時に私の携帯電話から「エリアメール」を受信したときのあの着信音が鳴り、ほかの人のポケットからも同様の音が聞こえ、画面を見ると「津波注意報」の文字。途端にサイレンが鳴り始め、陸閘が自動で閉まり始め……その光景には寒気を感じました。初めての「沿岸部にいる時に津波注意報が出される」という経験。避難をしなければと動き始めました。しかし同時に「誤報か訓練の類だろう」という考えが頭の中を駆け巡っていました。一応避難はするけれど、すぐに注意報は解除されて取材は少し遅れながらも今日中にできるだろうと考えていたのです。体感できる大きな揺れがなかったことも、そう考えた一因だと言えます。しかし今振り返ると、最大の要因は自分の中にいわゆる「正常性バイアス」が働いていたのではと思っています。予期せぬ出来事に接したとき、身に迫る危機などを過小評価する心理的作用、それが正常バイアスです。簡単に言うと「自分は大丈夫だろう」と楽観視してしまう思考です。最終的に私含む取材班は塩釜神社に避難しました。その道中も、なぜか頭の中がふわふわしていて、津波注意報が出されているのはどこか遠い地域、気を抜くとそんな気持ちが湧いてきていました。津波注意報が津波警報に切り替わったのは、私たちが塩釜神社に到着して間もなくのことでした。ここで私はハッとしました。港の、海のすぐ近くで「誤報だろう、大したことはないだろう」という思いがどこかに浮かんでいた自分に、実は相当な危険が迫っていたと気づきました。今思い返してもその当時の自分の思考には不気味な恐ろしさを感じます。東日本大震災に関する取材をしていると、この正常性バイアスについて接する機会も少なからずあります。逃げ遅れた人の中には、正常性バイアスによって避難行動が遅れた人もいるとされています。今回、それを自分が身をもって体感しました。そしてそれがいかに取り除きにくい、思考にこびりつくようなものかを感じました。今後は同じような状況になった場合、常に自分の思考を疑い続ける必要があると思っています。今とっている避難行動が本当に最善か?「状況」を過小評価していないか?震災発生から15年。少しずつ時間が経つ中で、自分自身が気を引き締めなおそうと感じた出来事でした。写真は2月にとった「がんばろう石巻」看板です。この日は快晴で比較的暖かく、風も穏やかでした。今年の3月11日当日はどのような天気になるのでしょうか。次は高橋アナウンサーです。
東日本大震災15年 下山 由城 2026/03/05 先日、大崎市の酒蔵を見学したときには、東日本大震災のときのエピソードを聞きました。その蔵は東日本大震災で仕込み蔵が全壊する被害を受けました。出来上がっていた多くの製品も破損してしまったそうです。3月といえば通常なら仕込みは終盤、もしくは終えている時期です。蔵が損壊してしまっては新たに作ることもすぐにはできません。それに加えて震災直後は「自粛」の呼びかけもあり、消費期の1つである「花見」のイベント中止などが相次いだことによるマイナス面もあったと言います。大きな災害が起きたときは、「不謹慎ではないか」と自粛を優先しがちになります。当然、被災者の痛みに寄り添う心は尊いものです。何が正解で、何か不正解だという話ではありません。ただ、寄り添う形は沈黙だけではないということも再度学んだ気がします。蔵は15年という月日を経て、力強く再生しています。お話を聞くだけでは道のりの苦労のすべてを知ることは到底できません。個人的に宮城で1番好きな日本酒を作る酒蔵さんです。これからも定期的に飲んで応援したいと思います。15年が経とうとしていますが、個人としての向き合い方や備え方を考え続けていきたいです。去年12月の津波注意報が出た地震のときは、仕事は休みで仙台駅近くのアーケードを歩いていました。揺れは正直気付かなかったのですが、スマートフォンから鳴り響くアラーム音で緊張感が一気に高まり、急いで会社に向かった記憶があります。去年7月のカムチャツカ半島沖の地震では、最初は何故津波警報が出ているのかわからず「こんなパターンもあるのか…」と驚きながら出社。打ち合わせなどの予定はすべて延期となり、ヘリコプターの中継対応のために空港へ向かいました。いざというときに自分にできることは限られるかもしれませんが、様々な変化に対応していけるように1日1日を歩んでいきたいです。お次は堤アナウンサーです。
東日本大震災15年 伊藤 瞳 2026/03/04 2月下旬から4月並みの暖かさとなるなど春の暖かさを感じる日も増えてきましたが、15年前の3月11日は非常に寒い日だったと聞きます。震災発生日は冬型の気圧配置で宮城県に冷たい空気が入り仙台市周辺でも雪が降ったということです。そのような中、暖房や電気、ガスが停止する低温環境の中での避難は、想像を絶するものだったと思います。寒さの中での避難所生活を強いられ、津波から命を守られても、その後、低体温症の症状により亡くなる命もあり、東日本大震災をきっかけに“寒さの中での避難“が課題となりました。様々な自治体は厳冬期の避難を想定してストーブや毛布を追加で準備するなどして厳冬期の避難の対策に取り組む、組織レベルでも個人レベルでも寒さを意識した対策は進められてきたそうです。一方、2025年7月、ロシアのカムチャツカ半島沖を震源とするM8.8の地震の影響で、県内では大きな揺れがないのにも関わらず、最大90センチの津波が到達する「遠地津波」がありました。海外で発生した遠地津波の特徴は”長引く”傾向にありますが、この日は、仙台での最高気温が30℃に到達。真夏の暑さの中での避難を強いられ、仙台市内では高台に避難した人が熱中症の疑いで搬送されるなど、東日本大震災以降初めて”暑さの中での避難“が課題となりました。「仙台放送LiveNewsイット!(月-金 午後6時9分~)」で私が担当している「知っておきたい!気象・防災のキホン」で取材した東北大学災害科学国際研究所の佐藤翔輔准教授は、「避難が長期化した場合に備えて、臨機応変に対応できるように、高台以外にも避難先の選択肢を多く持っておくことが大切」とお話ししていました。東日本大震災15年。次いつ起こるか分からない地震や津波に備えて、まず避難行動について考えることが大切ですが、地球温暖化で季節も二極化しつつある昨今、季節も踏まえた避難のパターンを考えておくことも大切だと感じました。明日は、下山由城アナウンサーです。
東日本大震災15年 飯田 菜奈 2026/03/03 東日本大震災から15年も経つのか・・・。その数字に驚かされます。当時のことは鮮明に覚えているので。この春から、大学時代の友人が、教育関係の仕事に就くため、宮城に赴任すると報告を受けました。宮城出身ではない友人に思わず、「東日本大震災のこと、勉強しておいたほうが良いよ」と言いながら、自分自身ハッとしました。アナウンサーとして、テレビを通して震災のことや防災について伝えるだけではなく、東日本大震災を実際に宮城で経験した”1人の人間”として、自分のまわりの人たちに、伝えていく役目があることを痛感したのです。私が友人に教えるべきだと。15年の月日の中で、東日本大震災を経験した人は、今、宮城にどれぐらいいるのでしょうか。さまざまな事情で、県外に引っ越した方、多いと思います。一方で、震災後に宮城に住み始めた方、また震災後に生まれた子どもたちもたくさんいると思います。震災を経験していない人が増えていく中、1人の人間として、震災の恐ろしさを伝える役目、そしていざという時は、避難を呼びかけ、その場にいる人の命を守る役目を果たしていかなくてはいけないと、3月11日を前に思う、今日この頃です。写真は、久しぶりに母校、立教大学に行く用事があったので、思い出の詰まった校舎の前で。タイムリープしたかのように、学生時代の時の心情を思い出し、初心に立ち返ることができました。続いては伊藤アナです!
東日本大震災15年 千坂 紗雪 2026/03/02 今年度も、日本が地震の多い国であることを強く実感する一年となりました。去年7月と12月、県内に津波注意報が発令されました。7月はロケで名古屋に滞在中、12月はロケの帰りに仙台駅へ着いた直後。いずれも出張中での津波注意報でした。7月はすぐに仙台へ戻ることができず、宿泊先のテレビに映し出される宮城県内の映像を見つめながら、現地で伝えられないやるせなさを感じました。その思いもあり、12月は駅構内を出ると、そのまま走って会社へ向かいました。社会人になって4年。災害が発生した際の自分の行動が、確実に変わってきていることを実感します。私は大崎市出身で、内陸での体験しかしていません。しかし報道機関に勤めるようになり、当時のニュース映像や記録を調べる中で、沿岸部や被害の大きかった地域の現実を目にする機会が増えました。あの時は、ニュースを聞いて行動する側でした。今は、ニュースを伝え、行動を促す側にいます。その意識は社会人1年目から持っていたつもりですが、4年目となった今、震災について知るほどに、伝える立場としての責任の重みを、より強く感じています。15年という年月を経て、当時小学生だった私たちも、大人になりました。取材で小学生に話を聞く中で、「この時期に震災を経験したんだ」と感じる場面も少なくありません。自分が親世代になったとき、周りを守ることができるだろうか。そんな思いと重なり、次の世代の行動が、より主体的になっていることを実感します。毎年恒例の防災バッグの点検も、今年も欠かさず行いました。15年前のあの日に思いをはせながら、「これから私にできること」を、改めて考えています。写真は、1月に宮城県農業高校で行われた「進路達成セミナー」で講師を務めた際のものです。さまざまな経験を、自分よりも年下の世代へ伝える場面も増えてきました。自分自身の経験だけでなく、多くの方々の「あの日」を伝える中で、その思いを次の世代へつないでいく意識を、私自身も持ち続けていきたいと思います。次回は、飯田アナウンサーです。
東日本大震災15年 梅島 三環子 2026/02/27 東日本大震災発生の前日、私はヘリコプターに乗って取材をしていました。3月9日に発生した地震による被害を上空から確認するためです。その地震とは、三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の地震で、県内では最大震度5弱を観測。一時、津波注意報も出されました。「養殖いかだの一部が壊れている、列が乱れている。」そんなリポートをしながら、昼頃に仙台空港に到着。空港近くのお店でお昼ご飯をいただいて、会社に戻りました。翌日に、あんなことが起こるとも想像もせず。あの地震が前震だったなんて、誰が思ったでしょうか。私の乗ったヘリコプターも、お昼をいただいたお店も、翌日には津波で流されてしまいました。あの日、上空から見た宮城は、一日で全く別物になってしまいました。それまでの日常が無くなってしまいました。悲しい、怖いというより、何が起きているのか理解ができませんでした。徐々に見えてくる被害状況をただただ頭で処理するのに精いっぱいでした。あれから15年です。東日本大震災の被災地で取材をして15年ということにもなります。変わったこと、変わらないこと、そして変えなくてはいけないこと。年月が経ったからこそ、向き合わなくてはいけない課題があるとも感じています。写真は、先月取材した石巻市の門脇小学校です。震災後は、海の近さと風の強さをいつも感じます。次は千坂アナウンサーです。
東日本大震災15年 門間 陸斗 2026/02/26 東日本大震災から15年が経とうとしています。当時、私は小学2年生でしたが、あの時の記憶は鮮明に残っています。ドンッという大きな音のあと、立っているのもやっとの長く大きな揺れに襲われました。揺れた瞬間、まるで立ちくらみをしたかのように視界がゆがみ、何が起きているのか分からないまま、ただ道に立ちすくんでいました。その時、バイクで走っていたお兄さんが「危ないからこっちおいで」と声をかけ、倒れてきそうなものから離れるよう誘導してくれました。今振り返ると、あの激しい揺れの中で自分の身を守るだけでなく、咄嗟に近くにいた少年へ声をかけてくれた心の強さと優しさに尊敬の念を抱きます。家に帰った後は、私の家が沿岸部に位置していたということもあり、家族全員で避難しました。避難先では、配給でいただいたおにぎりを少しずつ分け合いながら、毎日を繋いでいました。連日取材に来ていたテレビ局や新聞社の方々に対し、当時の私は、「なぜ、こんな時にマイクやカメラを向けるのか」とあまり良い印象を抱いていませんでした。その気持ちが顔に出てしまっていたのか、それとも不安そうな表情を浮かべていたからなのかは分かりませんが、アナウンサーが私に「一緒に乗り越えような」と優しい表情で話しかけてくれました。その他にも色々と話した気がしますが、その一言が幼い私の胸に真っすぐ届きました。不安と不信感で揺れていた心が、少しだけ落ち着いたのを覚えています。言葉には、人を支える力があるのだと知った瞬間でした。あの日、言葉に救われた一人として。これからは、あの時の経験、これから見て、聞いたことを考え、思い、そして伝え続けていきます。写真は、4年前の3月11日に車窓から撮った荒浜の写真です。次は、梅島アナウンサーです。
東日本大震災15年 金澤 聡 2026/02/25 東日本大震災から15年という歳月を迎えます。15年前の3月11日、伝えなくてはいけない立場でありましたが、私は出張で宮城にいませんでした。出張先のテレビに映し出される宮城の惨状に言葉を失いました。家族は無事なのかどうか、不安の淵で押しつぶされそうでした。当時、スポーツ中心の仕事をしていた私は、「スポーツ」は正直、後回しも後回しの存在で、むしろ永遠に宮城でスポーツができなのではないかと思いました。しかし、震災後、再開したベガルタ仙台の試合を見て、考えが一変しました。選手たちが全力で走り、ボールを追い、ゴールを目指す。その姿に、心が震え勇気づけられました。勝敗以上に胸を打つ、スタンドから湧き上がる声援。苦しい時間を共有した人々が、ひとつになった瞬間でした。楽天やベガルタ、そして、89ersなど宮城でスポーツに携わる全ての人たちは、自らの役割を問い続けてきました。楽天の嶋基宏元選手会長のあのスピーチにもありました。『選手みんなで「自分達に何ができるか?」「自分達は何をすべきか?」を議論し、考え抜きました』と。その答えの一つが、「野球の底力を見せること」であり、被災地のために全力でプレーする姿にあったと私は感じています。スポーツは、“心の復興”に寄り添い続けてきたと信じています。あの日感じた感動の鼓動を、私はこれからも忘れません。そして、スポーツが灯し続ける光を、これからも伝えていきたいと思います。あの日、お腹の中で被災した次男は、今年15歳になります。家族皆が無事でいることに感謝し、3.11を迎えます。次は、門間陸斗アナウンサーです。