懐かしの味 佐藤 拓雄 2025/06/06 子どものころ、毎年端午の節句に合わせて、父方の祖母から「ちまき」が送られてきました。一口にちまきと言っても、いろいろなタイプがあるようですが、祖母のちまきは、三角で、もち米は白いまま、黄な粉をつけて食べる、というものです。祖母手作りのもので、笹の香りともち米の食感、つける黄な粉の香ばしさがたまらなく美味しい。誇張ではなく、本当にいくつでも食べられます。その後、母が作り方を教わり、祖母が亡くなった後も受け継がれていました。その母も亡くなってしまいましたが、今度は父が一念発起して、わざわざ作り方を白石のほうまで教わりに行き、毎年作ってくれるようになりました。【写真】は、父が作ったそのちまきです。祖母、母と受け継がれたものと違わない、私の記憶にしみ込んだ、ちまきです。ですので、厳密には「ずっと慣れ親しんだ味」であって、「懐かしの味」というのとはちょっと違うかもしれませんが、それでも、どこか郷愁を覚えるのが、このちまきです。問題は、私たちの代が、作り方を受け継いでいないこと。毎年のように、父から作り方を聞いておかないと、と思うのですが、実行に移していません。懐かしむだけになってしまわないようにしないといけないと焦っています。次は堤アナウンサーです。
修学旅行の思い出 佐藤 拓雄 2025/05/22 今回もひねくれた話になります。もう40年以上前ですが、忘れもしない中3の時の修学旅行。私は、各クラスから出す「実行委員」みたいなのをやっていました。そこで、教師から議題として出されたのが、服装。つまり、私服でいいのか、制服なのか、という話です。その前年、中2の時は、林間学校で私服でしたので、私は当然「私服で」という意見でしたが、教師たちはどうやら制服を着させたいようなのです。それならそうと最初から言えばいいのに、生徒たちに選ばせる体をとるところが、いやらしさです。当時は、「校内暴力の嵐」は一応収まったちょっとあとですが、いわゆる「ツッパリ」という生徒たちがいて、これがまた修学旅行などになると、どういうわけか張り切って、いかにもワルそうな格好をしてくるのが見えているので、教師からすれば、制服を着させておいたほうが管理しやすいわけですよね。ですが、そういう本音を隠して、いかにも生徒たちの意思で制服を選んだ、とさせたいのが見え見えなのです。私は、毎年学級委員を務めるようなタイプの生徒でしたが、そういう教師には与したくない、というくらいの意地は持っていたので、かなり抵抗しました。その議論の中で、教師側が言ったのが、「京都は制服が似合う街だから」。はああああああ????何を言っているのでしょうか。開いた口が塞がらないとはこのことです。要するに教師たちには何の理もないわけです。ところが、です。世の中というのは恐ろしいもので、そういう教師に迎合する生徒が出てくるんですね。「私もそう思います」って、おいおいお前何言ってんだよ、と言う間もなく、そうなると一気に形成は教師側つまり制服派の意見に傾いてしまい。結局、制服で、となり、しかも形の上では、「生徒たちが自主的に決めました」ということにされてしまいました。大人たちのまやかしにねじ伏せられた痛恨の出来事として、40年以上経った今も、思い出すにつけ、悔しくなります。私も相当しつこいですね(笑)もう一つ言えば、「制服」と言っている、お仕着せのお揃いの服装(こういう言い方もかなり嫌味ですが)、これは、私の中学校では、正式には「標準服」とされていました。あくまで「制服」ではなく、「これがスタンダードです」的な、これまた欺瞞に満ちた呼称です。学校からの文書など残るものには「標準服」と書いておいて、上述の議論のような時も含め会話の時は、「制服」という教師たち。狡賢く使い分けているのが、中学生である私にもばればれなのに、こういうことをしていたのです。私服の高校に進んで、制服だ標準服だ私服だと馬鹿々々しい議論をしなくなったのは清々しました。そしてこれ、今も同じことがあるんですね。ウチの子どもたちの通っていた中学校は、「制服」を「推奨服」と言っていました。「おススメしているだけの服ですよ」ってか?すみません、毒を吐きすぎましたかね。ここまで書いておいてなんですが、中学校にはさほど恨みはありません(笑)でも、世の中には欺瞞に満ちた教師がいるということを知ったのが、中学校の修学旅行であったことは間違いありません。あ、もちろん、結局制服を着て行った修学旅行でも、それ自体には楽しい思い出もありますよ。ではこのへんで。【写真】は、以前「京都駅で」見かけた「ドクターイエロー」です。単に京都駅つながりです。同じ写真を以前にもこのアナ・ログで使っていますが、あしからず。明日は、伊藤瞳アナウンサーです。
長期休暇があったなら 佐藤 拓雄 2025/04/28 「長期休暇」と言われてまず思いついたのは、2009年、次男が生まれた時に育児休暇を取ったことです。ただ、何度かここにも書いている私見ですが、「育休」は全く「休暇」ではないです。あくまで私の場合ですが、炊事、洗濯、食料品の買い物、上の子たちの送迎に文字通り明け暮れ、ゆっくり何かをする時間は全くない毎日でした。仕事より大変、と思ったほどで、これを「休暇」と言われたらちょっと違う気がするのです。法律上は「育児休業」なので、語感的にはそっちの方がまだ合っているかもしれないと思います。その頃と比べると、男性の育休についての社会全体の考えもだいぶ変わったのかな、と思います。制度としても少しずつ改善されてきているようです。それはいいのですが、この「男性の育休」文脈で必ずと言っていいほど出てくる単語が、「イクメン」。この言葉が私は当初から好きではありません。ちょっとうまく言葉にならないのですが、父親だからやってるだけのことを、「カッコイイ」みたいにカテゴライズすることへの反発でしょうか。国の「イクメンプロジェクト」の中にこんな文章がありました。「イクメンとは、子育てを楽しみ、自分自身も成長する男性のこと。または、将来そんな人生を送ろうと考えている男性のこと。イクメンがもっと多くなれば、妻である女性の生き方が、子どもたちの可能性が、家族のあり方が大きく変わっていくはず。そして社会全体も、もっと豊かに成長していくはずです。イクメンプロジェクトは、そんなビジョンを掲げて発足しました。」うーん、違和感ばかりです。少なくとも、私の育休は、そんな「ビジョンを掲げて」取ったものではなく、単純に、家の中が大変だから。それだけです。新生児がいて、上に小学生が2人いて、妻は出産直後で、というなかで、どうにかして家族の生活を何とか回していくしかない。目の前のことをやるしかない。そしてそれは、育休期間だけの話ではなく、子育てが終わるまでずっと続いていくことです。しかも、楽しいことばかりではありませんし、自分を成長させるために子育てをしているわけでもありません。私の周りでは、もっと若い後輩世代が次々と親になっていますが、私の知る限り、皆、日々の生活を何とか整えようと、公私のバランスを取りながら、毎日一生懸命やっているように見える人ばかりです。そのなかで「イクメンとして社会を変えよう」などと思っている人は一人もいないように見えます。(いたらすみません。)男性も育休を取りやすい社会を、というのは全く異論ありませんし、制度はどんどん整えてほしいです。しかし、家庭、子育て、という本来個人の領域であることを、それが社会を変えていく、社会のためになる、的なトーンはいかがなものか。というか、なんかいやだな、と思うのです。「長期休暇があったら」というお題からどんどん離れました。長期休暇があったらいいに決まっていますが、現実にはないですし、あっても長期旅行に行くほど経済的な余裕はないので、こんなひねくれた話になってしまいました。あしからず。【写真】永年勤続休暇の時に行った青森県の三内丸山遺跡。永年勤続休暇といっても休みは私だけなので、家族で旅行というわけにもいかず、JRのフリーパスを使い、数日間、一人で日帰り旅行をしていました。三内丸山遺跡の感動は機会があれば書きます。続いては、新人の門間陸斗アナウンサーです。
春といえば! 佐藤 拓雄 2025/04/17 春といえば、引っ越しシーズン。先日、長男の引越しを手伝いました。その流れの中で、諸事情があり、重たいスーツケースを2つ持ち、一人で東京から関西方面へ移動しなくてはならなくなりました。ひと言でいえばそれだけですが、これが、非常に大変でした。まず、最寄り駅まで向かう時に雨。傘を差さなければずぶ濡れになるほどの雨量、かつ、歩く以外に方法がない場所で、ゆるやかな上り坂。傘、スーツケース×2、背中にリュック。5分弱の距離がもうキツいキツい。新幹線の出発時刻も決まっているので、雨がやむのを待つわけにもいかず、進むしか選択肢がないのです。腕も折れよとばかりに、傘を差さない側の手でスーツケースを2つまとめて引きずり、最寄りの地下鉄駅に、文字通りたどり着きました。地下鉄はエレベーターがすぐに見つかったので、まだよかったのですが、困ったのは東京駅でした。とにかく広いのに、エレベーターがなかなか見つかりません。普段は東京駅でエレベーターを使うことはほとんどないので、見当が付きにくいというのもありますが、「階段ばかり時々エスカレーター」という印象。エスカレーターはスーツケース2個持ちでは危なくてとても乗れません。一人でエレベーターを探しながら、ああ、例えば車いすの人はこういう大変さの中で生活しているのか、「バリアフリー」という言葉は言われて久しいけれど、基本的に、世の中は、多数派であるところの不自由なく移動できる人のためにデザインされているのだな、と痛切に感じました。子どもが小さい頃、ベビーカーで移動していて、こういう不自由さを感じたこともありましたが、今回ほどの大変な思いをした記憶はありません。スーツケースを2つ持ったおじさんが、見知らぬ人に「これを持ってもらえますか?」などと助けを求めるのもおかしな話で、自分がそんなことを頼まれたら、何か犯罪に関わるのではないかと訝しく思うはずです。結局、ある改札で、【写真】の掲示を発見し、その通りに行ったところ、エレベーターがあり、上がったら目の前に新幹線がいました。いやー、助かった・・・と心底ほっとしましたが、今度は降りた先の駅か・・・と憂うつな移動はもうしばらく続いたのでした。明日は、この4月入社、新人の門間陸斗アナウンサーです。
新生活の思い出 佐藤 拓雄 2025/04/04 進学や就職、引越しなど、これまでの人生で、一体、何回「新生活」があったのだろうと、自分の人生を振り返ってしまいました。どれもそれぞれに思い出があり、どれも大きな転機で、考えるうち、人生とは「新生活」の繰り返しなのかもしれない、などと哲学めいたことを思いつきました。さっさと具体的な話に入った方がよさそうですが、私の大きな転機となった「新生活」の一つは、今から36年前(!)、大学入学で仙台へ来たことであるのは間違いありません。そうでなかったら、仙台で暮らすことはなかったでしょうし、とすると、仙台放送に入ることもなく、妻に出会うこともなく、今の家族はなかったかもしれません。1989年、平成元年のことです。仙台の地へ足を踏み下ろしたその一歩は、当時の私にとっては小さいが、私の人生にとっては大きな一歩だ・・・アームストロング船長か!その仙台で、最初に入った店が、仙台駅前のダイエー仙台店。前回に続いての登場ですが、2月に閉店した、のちのイオン仙台店です。ここで生活用品をいくつか買って、新生活に備えました。この時、一緒に来てくれたのは父でした。先日、父にそのことを覚えているか聞いたところ、はっきり覚えているという答えが返ってきました。仙台に一緒に来たというざっくりした記憶ではなく、ダイエー仙台店のこともはっきり覚えていました。考えてみれば、第一子を初めて一人暮らしさせた出来事。父親の立場で考えれば、忘れるはずもないことです。私だって、長男と長女のそれぞれの一人暮らし開始は、それぞれに鮮明な記憶があり、親と子にとって、一生忘れ得ない大切な「新生活の思い出」です。でも、それで真っ先に思い出すのが「ダイエー仙台店」というのは、どうしてでしょうね。人間っておかしいですね。父とのその話の流れで、当時の父の年齢を考えたら、今の私より少し下でした。そうか、こういう年齢の時に、父は私を仙台へ送り出したのだな、そして、私が子どもたちを送り出したときの気持ちも思い出しながら、父の当時の心境を思い、また、そうした父との時間は二度と戻らない貴重なものだったことを今さら思い知り、心が温かいような、それでいて少し寂しいような、ちょっと複雑な気持ちになりました。我が家は、この春、長男と次男が、それぞれ人生の次のステージ「新生活」に進みます。「新生活」に入るための準備も何かと多く、親もとても忙しいですが、それぞれの「新生活」を親として精いっぱい応援します。(物心両面で(笑))【写真】は、去年の桜です。今年の桜はまだなので。このテーマは私が最後でした。次回からは別のお題で千坂アナウンサーからスタートです。
東日本大震災14年 佐藤 拓雄 2025/03/11 先月、仙台駅前のイオン仙台店が閉店しました。店のこれまでを振り返るニュースの中で、14年前の震災発生直後、店に長い列ができた映像が出てきて、当時をまざまざと思いだしました。当時は、ダイエー仙台店。津波の被害がなかった地域でも、どこの店にも商品がなくなるなか、ダイエー仙台店は発生2日後の3月13日に営業を再開しました。私は当時、ずっとスタジオから震災を伝える立場だったので実際に店に行ったわけではありませんが、取材班が撮ってきた映像で行列を知り、非常に強い驚きを持って伝えた記憶が鮮明にあります。日常が一瞬でなくなる、というのは、こういう側面もある、ということを強く感じた出来事の一つです。コロナ禍もそうでしたが、平穏な日常がいかに大切でありがたく、しかし脆いものか。きょう3月11日は、そのことを改めてかみしめる日でもあると思っています。さて、仙台放送では、きょう3月11日、夕方のニュース「仙台放送LiveNewsイット!」に加えて、震災に関する特別番組を2つ放送します。午後1時50分からは、「仙台放送LiveNewsイット!特別版「あの日をつなぐ」」、午後2時50分からは、「明日への羅針盤2025~それぞれの選択~」。私は、報道部を兼務していて、いずれの番組にも、ニュース制作の立場で関わっています。「明日への羅針盤」は、番組全体をまとめる役割で制作に携わりました。被災した岩手、福島の系列局と合同制作で毎年お送りしている番組で、今年は、3県に住む人々「それぞれの選択」をテーマに、その意味を見つめる内容です。同じ震災で大きな被害を受けたとはいえ、宮城、岩手、福島では、被災状況も復興のあり方もそれぞれで違っていますが、それでも、隣の県同士、互いの「隣人」を知ることはとても大切なことで、それが復興の「羅針盤」になると信じています。それはもちろん宮城県の中でも同じこと。隣人のことを知り、思いを馳せることが、復興につながっていくと信じ、日々のニュースを含めて、震災を伝えています。番組をご覧になった方が、何か一つでも感じ取ってくだされば、と願っています。【写真】先日、窓の外を見たら、飛行機雲が3本交差していました。この時期だからか、「千の風になって」が頭の中に聴こえてきました。明日は、西ノ入アナウンサーです。
応援あれこれ 佐藤 拓雄 2025/02/21 先日、長崎への出張があり、去年オープンした「長崎スタジアムシティ」をちらっと見ることができました。JリーグV・ファーレン長崎のホーム「ピーススタジアム」とBリーグ長崎ヴェルカのホーム「ハピネスアリーナ」を中心に、ホテルやショッピングモール、遊技施設などを備えています。行った日がちょうどV・ファーレン長崎の今季開幕戦、しかも、試合開始2時間ほど前だったため、たくさんの人が集まってきていました。一言で言って、素晴らしい。私は短時間さっと見て回っただけなのですが、客にとってとても気が利いている施設だと思いました。スタジアムを見下ろすホテルが隣接されているのもよいですが、それよりもいいなあ、と思ったのは「フードホール」。スタジアムのスタンドの裏側が、ピッチの縦幅いっぱいフードコートになっているのですが、それが室内なのです。雨も風も寒さも暑さも全く関係なく快適に食事ができて、ガラス越しになんとなくピッチの様子も見える。【写真】がそのピッチが見える様子です。寒い宮城にこそほしい施設です。(楽天、ベガルタ、どちらもそういう所、何とかしてくれませんか?)テーマに無理やりこじつけますが、「応援する人を応援する施設」、という言葉が頭に浮かびました。ところで、我が家は今、受験生を抱え、「受験生応援モード」です。長男の高校受験から始まり、通算何度目になるのか、浪人などもあったので、受験生を抱えている年は片手では収まりません。5年連続受験生がいる、という時期もありました。何度やっても、「受験生の親」というのは、無力感ばかりです。なるようにしかなりませんが、それにしても、自分の努力でどうにかなることではなく、できることは実に少ない。はるか昔のことですが、自分の受験の方がどれだけマシか、と思います。ですが、それは、私自身が「親の心子知らず」状態だっただけだからだろうと、親になってから気がつきました。ともかく、応援モードもラストスパートです。次は梅島アナウンサーの応援話です。
最近笑顔になれた話 佐藤 拓雄 2025/02/17 【写真】最近ものすごく美味しいカステラを食べました。県内の菓子店のもの。本当に今まで食べたカステラの中で一番おいしいと思ったほどです。自然と笑顔になります。さて、もう一つ「笑顔」話を。昨年末の「スポルたん!NEO」の企画「楽天ドリームドラフト」。自社番組で恐縮ですが、本当に楽しい企画でした。山﨑武司さん、平石洋介さんの楽しそうな様子もよかったですが、何と言っても、「高校野球大好き・楽天大好き芸人」かみじょうたけしさんのコメントに笑いが止まりませんでした。野手の「ドラフト1位」が藤田一也というところから大きく共感し、藤田といえば「日本シリーズ第5戦!」に大々共感。デッドボールで負傷した足を引きずって3塁へ激走、しかしそこで走れなくなり、交代を告げる星野監督。かみじょうさん曰く「星野さんが 「一也、もうええ」と(言った)」 。臨場感たっぷりの激アツコメント。あの2013年日本シリーズで最も熱かった第5戦を思い出しました。・・・が、ちょっと待て。星野監督は「一也、もうええ」と言ったかな??そんな場面あった??放送後、また第5戦を見たくなってしまい、永久保存のディスクを出して、その場面を確認しました。いや~、何度見ても胸が熱くなります。が、「一也、もうええ」は言ってないですね、多分。少なくともグラウンドでは、藤田選手と星野監督の接点はなく、中継ではそのような場面は映っていませんでした。しかし、いいじゃないですか!かみじょうさんには聞こえたはずです、星野監督の声が。というか、取材で得た情報かな?何を言いたいのかだんだん分からなくなってきましたが、かみじょうたけしさんは、確実に私を笑顔にしてくれました。明日は、高橋咲良アナウンサーです。
給食の思い出 佐藤 拓雄 2025/01/30 【写真】仙台で今季初の積雪があった翌朝、通勤路の風景です。枝が川に張り出しているため採ることができない柿の実に、雪が積もっていました。さて、給食と聞くと、必ず思い出すことがあります。以前このアナ・ログにも書いたのですが(2017年3月の「恩師」というテーマでした)、小学2年の時の担任、今で言う「体罰教師」です。半世紀近く経っても、まだ思い出すのですから、自分のことながら、かなりのショックを残しているのだと思います。(当時のアナ・ログを一部そのまま再掲します)忘れ物をした子を立たせるなどは日常茶飯事。今でも覚えているのは、黒板の前に並ばされ、両手を挙げて立っていなさい、という罰。何をした罰かは覚えていないのに、受けた罰は鮮明に覚えているのですから、教育的効果もゼロですね。この体罰、5分もその姿勢でいたら、二の腕あたりに血がたまって、腕がジンジンと重くなり、大変な苦痛です。そんなことを小2の子たちにさせていたのです。もっとひどかったのは、給食で使うランチョンマットを忘れてきた子に、給食を一口も食べさせなかったこと。給食の時間中泣いていたのが忘れられません。(ここまで再掲)何度思い出しても、ひどい話です。特に自分が親になってからは、自分の子どもがこのようなことをされたらと想像すると、強い怒りの気持ちが沸いてきます。担任と言えど、子どもの給食を奪う権限などどこにもないのですが、給食の問題に限らず、学校の教室という密室のなかで、判断力や批判力に乏しい小学生は、教師の言うことに従うしかなく、そこに背筋が寒くなる思いもします。その担任教師は、当時30代くらいだったと思いますので、今は80代でしょうか。名前だけははっきり覚えていますが、その後どうなって今どこで何をしているのか、知る由もありません。給食を食べさせてもらえなかった同級生も、その後私が転校したこともあり、どうしているのか分かりませんが、傍観者だった私ですら今もこんな思いですから、ご本人はどれほどか。「給食の『嫌な』思い出」の話になってしまいました。すみません。明日は、西ノ入アナウンサーです
2025年に行きたい場所 佐藤 拓雄 2025/01/15 お節料理に、縁起の良い白い蛇が入っていました。【写真】白い蛇にあやかって、金運、上がってほしい!さて、2025年に行きたい場所、特にありません。と言ったら身も蓋もありませんが、今年でなくても、行きたい所には行きますし、行きたくても行けない所はいつまでも行けません。ひねくれていてすみませんが、ここで宣言したって仕方ないだろう、と思ってしまいますので、こういうお題は、実に書きにくい。とはいえ、これで文章が終わったらこれまた仕方ないので、もう少し書きます。年明けすぐに書店に行ったら、発見・出会いが二つもありました。一つは、店に入ってすぐ目に飛び込んできた大きな広告。伊坂幸太郎の新刊が出るというではありませんか!去年は出なかったので、待望の新刊です!「デビュー25周年記念書キ下ろし作品」とあります。「書き下ろし」の「き」の字が「キ」とカタカナになっています。意味深です。すぐさま予約しました。楽しみです。届いたら、すぐに、ではなく、大事に、読もうと思っています。新年早々、私にとってのグッドニュースでした。もう一つは、去年亡くなった世界的指揮者・小澤征爾さんの「ボクの音楽武者修行」が、増刷されたのか、平置きで売っていたことです。すぐさま買いました。以前この「アナ・ログ」に書きましたが、音楽を志していた青春時代の、私のバイブルの一つ。亡くなった際に、もう一度読もうと思ったのですが、いつの間にか処分してしまったのか、家に見当たらず、お預けになっていました。二つとも、ネットで調べれば見つかった情報では?というツッコミは甘んじて受けますが、でもそうじゃない、やはり書店は行くものだなあ、とつくづく思った新春。ネットに押され、実店舗の書店は閉店が続いていますが、書店をぶらぶら歩いて、探してもいなかった本に出会う喜びや興奮。新しい本のにおい。そう言う自分も、今やほとんどの本をネットで買ってしまいますが、それでも、実店舗の書店は、無くなっては困ります。勝手なものですね。そんなわけで、こじつけですが、2025年「も」行きたい場所は、書店です。明日は、飯田アナウンサーです。