アナ・ログ ~アナウンサーリレーエッセイ~

2016年 ともに

2016/03/16
新しい環境にたった一人で、もしくはわずか数人でとび込んでいく子供たちがいます。

この春、閉校する仙台市立中野小学校。
全校児童は、今、40人。

震災の津波で被災し、校舎はすでに取り壊され、震災後は近くの小学校の校舎で学んでいましたが、今年3月での閉校が決まりました。

閉校を前に、去年12月に開かれたイベントで、伝統の和太鼓の演奏を披露する中野小のこどもたちと出会いました。

力強い太鼓の音。
お腹の底まで響いてきて、心まで揺さぶられました。

4月からは、それぞれ新たな住まいの近くの小学校などへ、離れ離れに通うことになる子供たち。
不安もきっとあるでしょう。寂しさだって、口にはしないけれども、感じているはず。

それでも、みんなのたたく太鼓の音が、教えてくれている気がします。

みんなが力強く、成長していることを。

離れていても、つながっていることを。

『つながる』って、きっと、実際に隣りにいなくても、同じ教室にいなくても、
同じ時間をともに過ごした「思い出」を共有することなのかもしれないと。

「どんな向かい風の中でも、あきらめずに一歩一歩、前に進んでいく。」
みんながくれたこのメッセージ。
私の宝物です。

新しい環境の中でも、胸を張って歩んでほしい。
つらくなったら、思い出してほしい。

みんなの太鼓は、たくさんの大人の心を揺さぶったことを。
たくさんの大人を励ましたことを。
みんなの歩む明日に、たくさんの笑顔があふれていますように。
いつも、いつも応援しているよ。

☆プレゼントでいただきました!春らしいお花です!

アナ・ログ。こちらのお題は私がアンカーでした。
次のお題は「卒業式の思い出」です。

2016年 ともに

2016/03/15
震災から5年=私が仙台放送に入社して5年

取材やプライベートで県内各地を回るたびに、
その町の景色が変わっていることに驚かされます。

南三陸町志津川地区…かさ上げが進み、
遠くからでは、防災対策庁舎も高野会館も、ほとんど見えません。

気仙沼市鹿折地区…第十八共徳丸があった場所には、
周囲を眺めることができる高台。
そして、更地だった周辺は、土が盛られていて、
これから新しい光景ができてくるのだと車で通るたびに感じます。

女川町市街地…がれきが撤去され、土の色しか見えなかった場所が、
洋風なオシャレな街に変貌を遂げていて、
訪れたときの驚きは、今でも忘れられません。
これから、どんな街ができるのかと気持ちが高ぶりました。

5年が経ち、スピードの速い遅いはありますが、
少しずつでも復興に向けての歩みは進んでいるのだと実感します。

ただ、私が、宮城に住んでいて、一番もどかしいのは、
震災前の光景を、自分の眼で知らないことです。
被災してから、どのように変化しているのかは、わかっても、
震災前の町と比べて、どうなのかは、私には映像や写真でしかわかりません。

このもどかしさは、ずっと続くものだと思います。
でも、もっと多くの人の話を聞き、多くの資料を見て読んで、
少しでも、震災前を知る人たちの気持ちに、
近づけるようになりたいと思っています。


次は、寺田アナウンサーです。

2016年 ともに

2016/03/14
震災から5年の今年は、女川で取材をしました。

写真の通り復興に向けた工事が進み、
街の中心に立ってみても、元の姿は思い出せない程です。

「あの、埋まっているものは?」
私の問いかけに、地元の方が、
流された女川交番だと教えてくれました。

交番はそのままですが、周囲が7メートルもかさ上げされているので、埋まっているように見えただけでした。

「ちょうど、この7メートル下が昔の女川駅」。
そうも教えてくれましたが、幾重にもなるフェンスの向こう側にある海を見ても
実感がわきませんでした。

全てと言ってもいいほど、街の中心部を流された女川町。
復旧というよりも、生まれ変わるという印象を強く受けました。

そして、今回は女川中学校に伺う機会にも恵まれました。
校舎1階には、壁にびっしり張られた卒業生の俳句。
津波の恐怖、そして怒り。
震災直後の句には、子供たちの叫びのようなものが込められていました。

それが震災から5年の今年、
子供たちの句から震災が消えつつあると言います。
そして、普通の中学生の喜びや悩みに溢れているのだと。

子供たちがそう思えることは、
大人たちにとって、何よりの救いになるかもしれません。
街の復興、心の復興。
1日でも早く、「遂げた」と皆さんが思える日が来ることを心から願っています。

明日は、入社から5年ですね。稲垣アナウンサーです。

2016年 ともに

2016/03/11
担当している番組「ともに」は、震災翌月の2011年4月に放送を始め、毎月1回、被災地の今、復興の今を見つめています。今日が60回目の放送です。

この番組の中で、南三陸町歌津地区の様子を継続的にお伝えしてきました。
毎回、歌津駅前という同じ場所の風景を撮影し、その変化を(変化がないことも含め)感じていただくということも試みています。60回の放送のうち半分近くの回で、歌津の今をお伝えしました。

写真が、その同じ場所から見た、歌津駅前の風景です。
上が2011年5月。下が、今月です。
風景は、5年で随分変わりました。
5年前は、かろうじて道路が通れるようになったものの、至る所がれきだらけでした。
現在は、かさ上げ工事の盛り土がいくつもできています。
集団移転の宅地や、災害公営住宅の建設は、おおよそめどが立ったようです。

しかし、いまだ仮設住宅を出られない方が、この歌津地区だけでも、760人。
仮設商店街は、先日、かさ上げ工事のため、場所を変えましたが、仮設から仮設への移転で、今も仮設のままです。

5年もの月日が流れて、全員が「仮設」を出る、ということすら終わっていない。
その間に、誰もが等しく5歳、年をとったわけです。

5年経った歌津の風景を見るにつけ、なんとも歯がゆい思いがします。
無力感も小さくありません。

それでも、私たちテレビ局にできるのは、伝え続けること。
それが私たちの使命、役割だと思っています。

最後の一人が「復興した」と言えるまで、「ともに」前へ進みましょう。

次は、梅島アナウンサーです。

2016年 ともに

2016/03/10
「ざわざわ感」

あの日のことを思い出す時の気持ちを言葉で表すと…
私の場合…こうなります…。
5年が経とうとしている今でも、この季節の空気が「ざわざわ感」を呼び覚まします。

震災の4か月前…2010年11月。
仙台放送の新しいヘリコプターの稼働式典の司会を担当し、その時の思いを、このアナログに書きました…。

http://ox-tv.jp/anabrog/p/?odno=91

30年近いアナウンサー生活の中で、牡鹿半島の自衛隊機墜落事故、新潟の中越地震と中越沖地震・青森の新幹線トンネル落盤事故等々、その時々仙台放送のヘリコプターから全国へ中継してきました…。

しかし…
あの日…
私が津波の惨状をリポートしたのは…フジテレビのヘリコプターからでした…。
仙台放送のヘリコプターは…津波に流されていたのです…(写真)

あの日…
空から見た光景は…まだ目に焼き付いています…。
救助を求め、ヘリに向かって手を振る人達…

「ごめん…このヘリでは釣り上げられないんだ…」
カメラマンのつぶやきが、インカムを通して聞こえてきました。
ふと横を見ると…カメラマンの目が潤んでいるのが分かりました…。

「広い絵(俯瞰)を撮ってもらえます?」
「ここが何処なのか、リポートします。そのあともう一度、よってアップの絵をください…。」
「何かランドマークがあれば、それも撮ってください!場所をハッキリと判らせてから…ここで、救助を求めている人がいることを伝えましょう!」
福島の相馬から北上し、宮城県の沿岸部を縦断、岩手の大船渡まで…現実を伝え続けました…。

モニターを見ていると…映画を見ているような錯覚に襲われますが…
窓の外に目をやれば…この風景は明らかな現実…。
しかも目を覆いたくなる惨状…。

今でも、海岸に行くと…あの日を思い出し…
ヘリコプターのローターの音と振動が蘇り…
胸に「ざわざわ感」が広がります…。

明日で…あの日から丸5年…。
それぞれの人に、様々な思いがあると思います。

仙台放送では「みんなのニュース」と「ともに」を中心に、朝の「めざましテレビ」から、夜の「あしたのニュース」まで…各番組で、被災地の今をお伝えいたします。

明日は「ともに」のキャスター拓雄アナです。

2016年 ともに

2016/03/09
震災から5年が経ちます。
節目は単なる時間的な表現であって、ものや心の復興はまだまだ継続していかなくてはいけないと。

ベガルタ仙台の渡辺晋監督は、こんな思いも抱きJ1の2016年シーズンに挑みます。
チームスローガンに『興す』という文字を入れました。
当然、そこには復興の意味も込められています。

前監督の手倉森誠リオオリンピック代表監督は、ベガルタ退任会見で “東北から世界の希望の光になる”とメッセージを残しました。
アジア最終予選のドーハで見事オリンピック出場権を獲得し、さらに優勝まで成し遂げました。

“希望の光になる” この言葉はとても強い、だから、一旦口に出せば、そのプレッシャーは相当なものになると思います。
でも、ベガルタの時も、U23日本代表の時も光になりました。
本当に強く、持ってる監督だと思います。

手倉森誠前監督の薫陶を受けた渡辺監督。
シーズン開幕前に『希望の光になる』と言いました。
サッカーに、チームに、そして、選手やスタッフに真摯に真面目に向き合う渡辺監督が被災地を『興す』、強い決意のシーズンに向かいます。

次は、柳沢アナウンサーです。

2016年 ともに

2016/03/08
先日、取材で女川町に行きました。
せっかくだから地元のものを食べようと、ランチタイムに『ニュー このり』さんへ。

震災で被災し、現在も仮設店舗で営業中。
丼からはみ出すほどの、活穴子天は、軽く薄付きの衣がサクッと良い音を立てたら、肉厚でしっかりした身がほわっと口の中でほぐれる…。
次から次へとお客さんが来る理由がわかりました。
そのほかお野菜の天ぷらもお味噌汁も、全部美味しかったです。

また食べに行きたい、ぜひ、多くの人に味わってもらいたい、ぜひ、これから先もずっと営業を続けてほしい、そう思いました。

東日本大震災から5年。
最近感じるのは、宮城で震災を経験した人が転勤やそれぞれの事情で宮城を離れ、逆に、当時別の地域で暮らしていた人達が宮城での生活を始めていること。私のまわりでは、そういう人たちが増えています。

震災を体験し、宮城に住んでいる私には何ができるか…。
考える度に、何もできないことのもどかしさに悩んでしまいますが、震災後に宮城に住み始めた人たちに、当時の状況を、自分が体験したことを“伝える”というのもその一つかなと思い、実践しています。
そして、被害を受けた地域で再開したお店を応援すること。
小さなことに過ぎませんが、ずっと続けていきたいと思っていることです。

明日は金澤アナウンサーです。

2016年 ともに

2016/03/07
今回のテーマは「ともに」。
アナログで「ともに」のテーマを書くのも、私にとっては3度目となりました。
仙台に来てから、あっという間の3年だったなと感じました。

震災から5年。
この5年は被災された方にとってどんな5年だったのでしょうか。
あの時から、様々なものが変わったと思います。

昨年末、女川に新しく出来た商店街「シーパルピア女川」を取材しました。
女川駅から海へ向かって真っすぐ伸びている開放的なプロムナードに隣接し、飲食店など様々な店が並んでいて、とてもオシャレな空間でした。
女川には、3年前の仙台放送に入社する前、1度訪れたことがあります。その頃は、瓦礫など片付けられていて、更地でした。
その場所に、大きくて綺麗な商業施設が出来、新たな一歩が踏み出されたと感動しました。シーパルピア女川に来ていた方も「とても綺麗で感動した。」「地元が新しく生まれ変わるようで嬉しい。」と話していました。
ただ一方で、「生まれ育った風景が無くなってしまって、違う景色になってしまって寂しい。」という意見もありました。

これから更に、宮城の景色は変わっていくことと思います。様々な思いを伝えていけたらと思います。

写真は先日取材した、山元町の「ICHIGO WORLD(イチゴワールド)」。こちらも、震災後新しく出来ました。

次は、菜奈さんです。

2016年 ともに

2016/03/04
5年前、わたしは高校を卒業し、春休み中。
震災当時は大学の部活動の合宿に参加し、静岡にいました。ゴルフ場の中を歩いているとゆらゆらと。遠く離れた土地でも揺れは大きく感じました。

夕方練習をすぐ終え、その日のうちに車で帰る予定でしたが、高速が止まり、下道で帰ることに。渋滞の中、暗い山道、峠を越え東京の自宅までおよそ8時間(普段は2時間もかからないのですが)。合宿の疲れもあり、へとへとになりながら帰ったことを今でも覚えています。その時運転して頂いた先輩には頭が上がりません。
東北の被害を知ったのは帰宅してから。テレビで暗闇の中に火が燃える姿がうつり、これは今の映像なのかと目を疑いました。映像で見たことのない光景を目の当たりにし、自分の大変さなど本当に小さいものだと感じました。


被災地に初めて足を運んだのは就職活動の時。その時初めて東北に訪れたのですが、3年たった現場を見てみようと、沿岸部に足を運びました。驚いたのが砂浜に津波で流されてきたであろう流木やゴミの数々。(※写真)3年たっても完全な復興はまだ先だと、身にしみて感じました。


5年前のあの日。私は直接はこの地震を経験していません。被災者の方々に比べれば、私の大変な思いもほんの小さなこと。
宮城県という土地で働く以上、東日本大震災についてはこれからもずっと伝えていくでしょう。経験していない私が何を伝えられるか。ただ経験していないからこそ経験した皆さんの話を真摯に受け止め、まずは自分が感じたことを伝えていければと思います。

2016年 ともに

2016/03/03
写真は、先日ニュースでお伝えした震災を描いた絵本です。女川町出身の20歳の女性が絵を描きました。

これからの日本を、宮城県を、担って行くのは若い世代です。時々、子どもたちが自分たちの生まれ育った街について考える取り組みをニュースでお伝えすることがあります。
日常の全てが「当たり前じゃない」ことを知っている子どもたち。
目の前にあるものが、一瞬でなくなってしまうことを知っている子どもたち。
誰かに言われたわけではなく、自ら率先して動く。
あの時、怖い思いをしたはずなのに、当たり前のように、今、前へ進んでいます。歩みを止めずにいられるのは、きっと根底に「この街が好き」という気持ちがあるからです。

大人だけじゃない。
彼らも力強い復興の支えです。

そう思うと、宮城県の将来がすごく楽しみになってくる。
私もみんなと同じ。この街が好きです。


つづいては、牧アナウンサーです。